アダム・スミス「神の見えざる手」は、今だ有効か!?

| コメント(0) | トラックバック(0)

◎アダムスミスの「神の見えざる手」について

 実は1~2年前から、経済学についての著書も少しずつ読むようにしています。私なりに日本経済の停滞を強く感じており、その原因と対策を原理的なところまで戻って考えたいと思っているからです。多分資本主義システムの根幹にかかわる部分での課題が大きくあるのではないと思っています。但しなにぶん経済学に関して私は素人ですので、機会を見ながら少しずつ個人的な思いを中心にブログに載せたいと思います。

今回は、最近の日経新聞の「やさしい経済学」の記事について、コメントしたいと思います。

日経新聞2012717日『やさしい経済学より「アダムスミス」』

―記事の内容―

―アダムスミスの気持ちは、よくわかる―

―そんなに人間は、利己的なのか?―

―市場メカニズムは万能ではない!―

―供給量の制約による、アンバランスの発生―

―人口縮小による絶対的な需要減少―

―こうした世界的な人口急拡大や日本のような人口縮小社会に対応できていない、

経済学の現状―

追伸:

―経済市場も変化多様化している―

―「マトリックス営業戦略」モデルを経済市場にあてはめる―



日経新聞2012717日『やさしい経済学より「アダムスミス」』

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

―記事の内容―

 「国富論」に登場する「見えざる手」という言葉は「道徳感情論」第4部第一遍でも登場する。そして、自己の利益を追求する行動が、意図せずに社会の利益を高めることになるとスミスは繰り返し主張する。

個々の消費者や企業にとって、市場メカニズムは目に見えない。だが、ある与えられた価格に従って自分の利益を追求するように行動するなら、財の需要量と供給量が変わり、価格が調整変更され、やがて需給が一致する均衡が達成される。

 均衡で達成される需要量と供給量は、無駄のない資源配分を反映している。消費者や企業が自分の利益を追求することで、社会の利益が高められるのである。

 さらに、個々の主体が自分のために行動するなら、競争が生じる。競争には競争の場を成立させるルールがあるが、放任はルールを伴わない。自由競争は自由放任とは異なるのである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

―アダムスミスの気持ちは、よくわかる―

シニカルな人間性をとらえるイギリス人気質を持つ一方、敬虔なキリスト教信者でもあるスミスの思いがよくわかります。神の見えざる手によって、利己的な人間でも(個人の自由意思による競争と、市場を通した交換活動によって)社会に貢献するよう導かれていることを発見したと思えた時、スミスはうちふるえるほどの至高の喜びを感じたはずです。

それも、自由な個人主義が普及することによって、それが実現するとなると、そこに歴史の進歩さえ感じられたことでしょう。その思いに感情移入すると、「いやあ、よくわかるなあ~」とついニヤニヤしてしまうのです。こんな感情をもつのは私だけでしょうか。

 

―そんなに人間は、利己的なのか?―

但し、あまりに人間を合理的利己的にとらえ過ぎていることがまず気になります。たぶんスミスの人生において、そうした利己的人間によって苦汁をなめさせられたことも多かったのかもしれません。また誠実なスミスのことだから、自分の心を振り返った時、自分の中にも利己的な心があることを否定できなかったのかもしれません。

人間が自由であることは、その利己的な面も受け入れることが必要になります。それが近代化の宿命ですが、それに大いなる懸念もあったことでしょう。だから「道徳感情論」などという本も書いたのではないでしょうか。その懸念が「神の見えざる手」によって解消するばかりか、むしろ社会の利益を高めることに直結することを発見したのです。だから人間は利己的であることに、ことさらこだわった言い方をした、とも思えます。

しかし実際には、人間はそれほど合理的ではないし、それほど利己的に生きていけるほど強くもないよう思います。良くも悪くも?人間は一人では生きていけませんし、お金では本当の幸せを得ることが出来ないものだと思います。そんなこと、当たり前と言われそうですが、・・そこを間違えると、お金がすべての利己的人間でOKと勘違いする輩が出てくるので、気をつけなければならないと私には思えるのです。

 

―市場メカニズムは万能ではない!―

そのことは、ここではひとまずおいておきましょう。経済学的にもっと気になることがあるのです。よしんば人間が利己的で自分の利益しか考えないとしても、この需要と供給のバランスをとる市場メカニズムが、それほど万能なシステムとは私には到底思えないのです。価格によって需要と供給のバランスを取る市場メカニズムは、ある限定的な条件でしか適切にコントロールされないのではないか、ということです。需要も供給も、それほど柔軟にコントロールされるものではなく、もろもろの条件によって、制約を受ける場合が多い。その結果、需要と供給が大きくバランスを崩すような状態では、むしろ市場での自由競争によって大きな弊害を生む可能性は高いだろう、ということです。そのことは、よく考えてみれば分かるはずです。

 

―供給量の制約による、アンバランスの発生―

 一つは供給量が一定に固定される場合です。例えば土地や労働力が考えられるでしょう。

その需要が少ないうちには供給過剰がおこり、供給物の一部は値段がつかないほど安くなってしまう可能性があります。土地は、そのことで放棄されるだけになってしまうでしょう。実際現在の日本では、そうした土地が多く発生しつつあります。山林もその一部でしょう。一方労働力は、もっと問題です。就労ができないことで、餓死者が出るとまでは言いませんが、極貧層が増えることで、社会不安が広がってしまうことになる。貧困国の悲惨さを思い浮かべれば、その弊害はよくわかります。

一方需要が多くなりすぎて、より将来の高い価格への期待が生じるならば、ゲーム理論をあてはめるならば、無限に価格が上がってもおかしくない。希少土地やアメリカの大企業のトップ人材などが、とんでもない高額価格になってしまうのはその典型例かもしれません。またそこまでいかなくとも、土地によって成約を受ける食料品も、世界的な人口増による食糧ひっ迫の予測から高騰していく傾向が強く、貧困層や貧困諸国でその弊害はより大きいものとなるでしょう。

そもそも、ゲーム理論で考えるならば、将来への需給バランスが偏った場合には、極端な価格がついてもおかしくありません。例えば必需品の供給量が限られて、将来の絶対不足が予測されてしまう場合、価格が予測を超えて高くなってしまうことは十分考えられます。多くの生産物に関して供給量は簡単には増大出来ない場合が意外に多いのではないでしょうか。食料や生活必需品のような人間の生存に関するものの場合、市場の自由メカニズムにゆだねると言うより、より高い立場での価格調整が必要なことは、間違いないよう思います。

 

―人口縮小による絶対的な需要減少―

一方、日本のような急激な人口の高齢化と縮小化が進む場合、すべてにわたって供給過多の需要過少状態に陥りやすくなっていると言っていいでしょう。なぜならこれまでは過去の大きな需要にあわせて生産体制がつくられ地活用もされていたからです。それ以上に大型小売店の売り場面積など、さらに拡大しており、売り場効率がさらに低下することになっています。

今ではいくら価格を下げても、買う人がいないのだから、需要が増える訳がありません。ところが供給過剰から、お互いで価格競争することで価格単価を下げ、さらに需要縮小を招いている。それがここ20年近くの日本のデフレの正体です。

またその結果、新規労働者の雇用を抑制するとともに、既存労働者の給料も抑制して、価格競争に耐えていると言うのが、多くの日本企業の姿ではないでしょうか。縮小市場の我慢比べて、個人にしわ寄せが行き所得も消費も減って、さらに需要を減退させて日本の経済力全体をじりじりと衰退させ、そのことによって個々の企業もますます厳しい状況に陥ってしまう悪循環にはまっている。先日日経新聞の第一面に載っていた、教育投資がバブル経済時代の八分の一以下に落ちているという記事には驚かされますが、日本経済の衰退化傾向を端的に象徴しているよう思います。唯一元気だった輸出企業も海外新興国企業の台頭で、先行投資の大量生産の価格競争力ではもはや太刀打ちできないと言うことかもしれません。それで尚内向きになっていったら、「ゆでガエルのことわざ」ではないが、気づいた時にはもはや手遅れといったことにならなければいいのですが・・。

 

―こうした世界的な人口急拡大や日本のような人口縮小社会に

                   対応できていない、経済学の現状―

 実際、こうした現状に経済学者はどう対応しようとしているのでしょうか。残念ながら、どうも不適応を起こしているのではないかと思える場合があまりにも多いよう思います。

欧米を中心とした経済学者は、個人主義、自由主義という考えに犯されすぎていて、何でも個人の自由を尊重して自由に競争し公正にやりとりをするなら、それでうまくいくはずだと今だ信じているよう思えます。ゲーム理論や行動経済学等も、そうした考えをゲーム的要素や心理的な要素をくわえることで微調整しようとしているにすぎないと思えるのです。

他方、日本の経済学者と言えば、多くの人達は、技術革新と経済成長を大前提にして組み立てられた過去の欧米の経済学理論を学んで、その方法論を今の経済にあてはめて説明しようとしているだけの人が、圧倒的多数ではないでしょうか。(実際、新古典派経済学もケインズ経済学も、資本主義の成長過程で起こる経済現象を前提として組み立てられた理論であることは、間違いないでしょう。)

人口大縮小社会に突入している日本の経済をどのようにしたら、豊かで幸せな社会に出来るのか、その理論方法論をきちんと突き詰めようとしている人は、本当に少ないよう思えます。立派な肩書を持った大学教授や著名な金融組織の専門家で、経済学の専門知識があって、目先の金融状況をわかりやすく解説できるならば、それで十分食べていけるからでしょうね。

 しかしそれでは、目先の金融状況のブレに振りまわされるだけで、本質的な解決策が出てくるわけがない。それが実は、現在の政治と政策の混迷に拍車をかけているよう思えてならないのです。思い付きの財政出動や目先の金融政策で、日本の経済の停滞が根本的に改善するわけがないでしょう。(実は、その答えに『これからの新しい事業のあり方』もあるよう思いますが、まだまだ私自身よくわかっていない部分があるので、このくらいで・・・ご勘弁を)

 

 ちょっと、えらそうでした。すみません。こういう話になると、どこか忸怩たる思いが湧いてきて限がなくなってしまいます。まあ個別企業や個人としては、今の日本経済のデフレスパイラルの悪循環にはまることなく、まずは自社そして自己のオリジナリティを磨き、社会的存在価値をしっかり上げていって、より高い付加価値を生み出してけるようにすること。それ以外にないですよね。 

縮小経済だからこそ、新たな価値を生み出すこと(新たな発想の需要創造)が何より大事になっていることは間違いないはずです。お客様満足を高めるための自由競争は、ますます大事になっているよう思います。但し、今の私には経済学的にまだうまく説明出来ないので、今回はこのくらいにしておきましょう。

繰り返しになりますが、アダムスミスの「神の見えざる手」による需要と供給の最適なコントロールという考え方は、アダムスミスの思いやその歴史的背景はよくわかるものの、{需要と供給の大きなアンバランスが発生している}現在の世界情勢や日本の社会経済状況から見て、大きな曲がり角にあると言うことで、締めたいと思います。

                                    以上

 

追伸:

経済を考えることは、歴史や文化、哲学、心理学まで含んで、トータルに社会のあり方を考えなければならなくなりますので、一度考え始めるとどんどんはまっていきますね。今後、折につけブログで、その時々の私の考えを発信していきたいと思います。

いまひとつ、実は私が現代の経済に強い関心をもつ理由をお話ししたいと思います。それは私が経営コンサルタントとして理論モデル化した「マトリックス営業戦略」の考え方が、もしかしたら現在の経済社会にも当てはまるかもしれないと言う予感があるからです。

 

―経済市場も変化多様化している―

「マトリックス営業戦略」は、市場の変化多様化を大前提とした理論ですが、現在の世界の経済状況も全く同様の状況になっているのではないでしょうか。

グローバルに広がった世界の経済社会は決して一律一様ではなく、資本主義の多様な異なった発展過程にある個々の国の個々の市場が同時に多元的に集まって、一つの全体市場を形成していると言っていいでしょう。

イギリス・ドイツ・フランスといった西欧先進国や米国の資本主義の経済状況と日本のような後発先進国の経済状況では一見似ているように見えても大きく異なります。もちろん中国や韓国、インドといった新興の成長過程にある国々、さらにはベトナム、ラオス、カンボジア、あるいは中東等、これから成長をめざす国々の経済は全く異なることでしょう。

しかしそうした異なる発展過程にある国々の経済がグローバル化の中で相互に影響しあい、一つの全体市場を形成しているわけです。さらに、その個々の市場は現状にとどまることなく、どんどん変化し全体市場を動かしています。ですからこれまでの経済学のように、単一市場のある一定の経済状況を前提に分析し、その経済状況にふさわしい経済政策を理論的実証的にモデル化する、と言ったやり方では、現在の変化多様化するグローバル市場をトータルにとらえて適切な対策を考えることは到底不可能ではないかと思えるのです。

市場は変化多様化しているという認識が、ビジネス世界でもまだ希薄なところがありますが、経済学を語る世界においては、さらに希薄であるよう思います。実験室のような世界を想定し短期的な状況変化を前提としなければ、学的な実証がしにくいからかもしれませんが、そのことで視野が狭量、矮小化してしまって、現実の経済をとらえることができなくなっているよう思えるのです。

 

―「マトリックス営業戦略」モデルを経済市場にあてはめる―

「マトリックス営業戦略」では、市場の変化の過程から「4つの領域」を想定し、その変化を読みながら、領域毎での最適な事業パターンを考えたり、異なる領域の戦いを組み合わせて新しい戦略バリエーションを生み出しています。同様に、経済市場でも、一律的な市場ではなく、その発展過程の違いからいくつかにセグメンテーションするとともに、それぞれのセグメンテーションされた個々の市場での最適な対応方法と、それによる全体市場との関係、及び他の個々の市場への影響や関係を考えていく、といったモデルが考えられるのではないでしょうか。逆に言うと、そこまで考えないと、現在の変化多様化するグローバルな経済市場はとらえきれないよう思えるのです。

特に日本経済の場合、これからの急激な高齢化と生産人口の縮小という「見たくない現実」に立ち向かわなければなりません。その解決策を探ることは、ほんとに喫緊の課題でしょう。その解決は、日本国内だけでなく、グローバル経済とも大きく関わることになるはずです。

 

ちょっと、話が大きくなってしまっているかもしれません。ビジネス世界では、そのモデルも一社一社の経営や事業戦略に貢献出来ればいいので、限られた範囲の仮説でも十分有効であり、意味あることと思いますが、グローバルな経済市場となると、そうはいかない部分も多いことを感じます。私のキャパシティをだいぶ超えているようです。でも、おかしいなと思える経済学者の話や政策には、やっぱりなんか言いたくなりますよね。

そこで当分は、経営コンサルタントという立場を超えない範囲で、経済に関する話をしていくことにしましょう。その中で私なりにも勉強して、少しでも皆さんにお役に立てればと思います。少々、思い付き的な話も多くなるかもしれませんが、ご容赦下さい。

(これからの日本経済の解決策の中に、実はこれから多くの日本企業が成長発展するための『新しい事業のあり方、ビジネスコンセプトやモデル』のヒントがある、と私は思っています。そこにつながっていく話も今後していきたいと思います・)

 

                                                                          以上


CBC総研のホームページ  

 

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://cbc-souken.co.jp/blog/mt-tb.cgi/39

コメントする

このブログ記事について

このページは、CBC総研が2012年7月20日 13:22に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「マトリックス営業戦略バリエーション③「独自市場創造戦略」の解説」です。

次のブログ記事は「マトリックス営業戦略バリエーション④「事業展開戦略」の解説」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

ウェブページ

  • image
Powered by Movable Type 4.261